牛久成田山 真浄寺
[牛久縁切り稲荷]
住所:〒300-1211 茨城県牛久市柏田町3260-15 電話番号:029-871-3210
色即是空|空|牛久 成田山真浄寺
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電話は、毎日受付ています。 住所:〒300-1211 茨城県牛久市柏田町3260-15 電話番号:029-871-3210 現在、護摩、水子供養、人形供養、
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〒300-1211 茨城県牛久市柏田町3260-15 電話番号029-871-3210 [お知らせ] 人形供養、遺品、仏壇、写真、仏像、形見、その他の物の魂抜き供養は、ご都合の良いときにお越しいただき、境内の人形保管庫に入れておいていただければ、本堂において、供養をいたします。詳しくはお問い合わせください。 [お知らせ] 縁切り稲荷、薬師如来、愛染明王のそばにある、縁切りわら人形、祈願木等は、ご自由にご利用ください。 [お知らせ] 「茨城の怖い話(著者:寺井広樹,一銀海生)」という本に、|牛久縁切り稲荷|についての話が、掲載されました。 真浄寺の鳥居内にお祀りしております鎮守尊は、次の名前で呼ばれる荼枳尼天尊。 境内に祀られている薬師如来尊は、法薬で病いを治してくれる仏様です。 境内に祀られている愛染明王尊は、忿怒の形相をして、悪者を追い払う仏様です。根は優しく、良縁成就、夫婦円満など、人と人を結びつけてくれる仏様です。 七福神を参拝すると、七難が消滅し、七つの福が生じます。 弁天様のご真言、「オン ウガヤ ジャヤ ギャラベイ ソワカ」を唱え続けましょう。弁天様を信仰すれば、たちまちに福に恵まれ、唱えた神呪、真言は、如意宝珠となり、願いは思うままに叶うという。 縁切り稲荷(荼枳尼天(だきにてん))の加持力、自分自身の日頃の行いから生じる功徳力、全宇宙の見えざる強力なパワー。これら三つの力を自分に取り込み、悪縁、悪運の流れを変えます。 愛染明王のご真言、「おーん まか らぎゃ ばぁぞろ しゅうにしゃ ばぁざら さとば じゃく うーん ばん こく」を何度も、何日も、口に出して、唱え続ければ、愛染明王に言霊(ことだま)として届き、縁結び、恋愛成就の願いが叶うと言われています。 真浄寺の文殊菩薩を参拝すると、どうすれば合格できるかという知恵が授けられます。 その後、般若心経、荒神様のご真言「オン・ケンバヤ・ケンバヤ・ソワカ」を七回唱える。 荒神様は、かまど神様。台所という清潔な場所に祀られる神様。不浄な穢れの除去、災いの除去。台所が繁栄すれば家庭も栄える。家内安全、商売繁昌、厄除開運などのご利益があるようお願いする。 縁が切れますようにと、心から何度も何度も願うことが重要です。継続は力なり。縁がきれますようにと願い続けることで、運命の流れが変わるきっかけとなります。縁が切れるようにと心を込めて、口で唱え、ダキニ天にお聞きいただき、赤い色の人形に願いを書きましょう。エイヤッと心から気合いを入れて願い、楊子で藁人形に刺しましょう。
2世紀に生まれたインドの仏教僧、ナーガールジュナ(漢訳名:龍樹)は、著作の中で「空」について、説いている。 何らの関係にもまったく依存することなく、独立した性質を持つものを「自性」と呼ぶ。
すべてのものは、何らかの因果関係により存在しているので「自性」がないという。 宇宙のように、最も最初に発生したと思えるものでさえ、何らかの因縁により生じたものである。
生まれたもの、作られたものは、因縁の連鎖の中で生じたのものである。従って、独自の本質を持たない。 すべての事物に、独自・固有の自性はない。 何らかの因縁、因果関係により生じたものは、独自の本質を持たない。
すべてのものは、因縁により生じている。 因縁により生じた、因縁の性質を持っているだけで、独自の本質を持たない。 独自の本質がない、空(から)である。
これを、仏教上、空と呼ぶ。因果関係なく存在し、独自の本質を持つものは、空ではない。 因果関係なく存在するものは、不生により生じたものであり、不滅で、うつりかわらない。
うつりかわるものは、空である。 諸行無常、すべてのものはうつりかわる。 生まれたものはいつか滅び、作られたものはいつか壊れる。 人間は、死ぬ。人間は、先祖からのつながりで存在している。
人間は、因縁があって生まれ、独自の本質がない存在である。空である。 不滅であるものは、作られたものではなく、生まれたものではないものである。
生まれる以前からあったものだけである。 生まれたものではないもの、生まれる前に存在するもの、生と死、生と滅という連鎖のないもの、作られたものではないもの、死にも壊れもしない。
これが、本不生、すべてのものの原点、始まりである。阿(あ)である。 独自に何の因果関係もなく存在し、変わることもないものごとの始まり。独自の本質である自性を持つもの、それが、「阿」である。宇宙真理、法身である「大日如来」である。
仏教上、因縁所生といって、すべてのものは、因縁因果の関係から成り立っている。 因縁関係で成り立っているものは、独自の本質部分かない。不生のものではない。空である。
仏教上、不生のもの、生れたものではないものは、うつり変わることもなく、消滅もしない。 永久不変で、その本来の性質が未来永劫まで変わることがない。
不生不滅のものとは、大日如来の命一つだけである。 別の言い方をすれば、人間も、大日如来、仏様もすべて同じ仲間なのである。 曼荼羅の仏様と人間は、一体、円満具足している存在、仏様の一員なのである。
曼荼羅の仏様と人間は、つながっているのである。 人間は生まれた時点で、既に仏様と同じであり、即身成仏しているのである。 霊といえども縁欠不生、因縁所生で、因縁により生じている。
阿字のふるさとに生まれ、阿字に帰る存在なのである。 科学では解明されていない、不生の霊、違う次元から出没する因縁のないものが存在していれば、別であるが。
宇宙は、ビッグバンにより始まったという説では、138億年前頃、突然、宇宙が爆発的に膨張し始めたというものである。 この説では、宇宙は、何らかの因縁により、ビッグバンが発生し、生まれたものである。
宇宙は、生まれたもであるから、独自の本質がない。不滅ではない。 いかなるものも、未来永劫変わることのない、独自の不変の性質のものはない。 五如来、五菩薩、五大明王は、大日如来の分身であるので、その本質は、大日如来である。
この世のすべてのものは、さかのぼれば、すべて一つのものから始まっている。 つまり、この世に存在するものが持つ本質は、ものの始まり、因の始まりである、「阿」が本質である。
独自の本質を持ったものは、この世に存在しない。存在するものすべては、「阿」の分身である。 この世に存在するものは、「阿」の分身であるゆえ、独自の我もない。
自分を我がある、独自の存在と考えても、実体は、独自の存在でも、独自の本質を持つ者でもないのである。空なのである。たとえ死んでも、もともと独自実体のない存在なので、死体は消滅し物質となり、「阿」に帰るだけである。「阿」から生まれて、「阿」に帰るだけである。
人間としてのお釈迦様は、生身であり、この世に生まれ、死亡した。 この世に生まれ、80歳で死亡したといわれるお釈迦様は、迹仏(じゃくぶつ<仮の姿、分身>)であり、その本仏は大日如来である。 この世に存在したお釈迦様は、何らかの因縁により、生まれたものであるから、独自の本質はない。生身としてお釈迦様には、独自の本質がなく、すべてのはじまり、因縁の元は、法身としての大日如来だけにある。この世に存在したお釈迦様は、空である。
別の説では、この世に存在したお釈迦様は、独自の本質を持つ法身かせこの世に現れた姿であり、寿命もなく、未来永劫滅びない存在であったが、皆が、お釈迦様に頼ってくるので、方便で、死んだというものである。
そして、お釈迦様の浄土である霊鷲山で、今も、説法を続けているというものである。
○空と仏の教えについて
仏の教え、仏教については、仏法、真理の側から見た見地と、自ら煩悩に苦しみ救いを求め、教え導く必要がある存在である人間の側から見た見地という、2つの見地がある。
この2つの見地があることを認識しないと、仏の教えに矛盾を感じ、悩むことになる。 方便をもって究竟(くっきょう)とする。 どちらの見地も正しいのである。
ケース・バイ・ケースで、最良だと考える見地をとって良いのである。 どのようなことにも最良の対応ができることが、仏の教えの良い点である。 ところで、仏の真理の側から見れば、すべては空である。縁欠不生、因縁所生、諸行無常、本不生、阿字のふるさとに生まれ、阿字に帰る。
この考え方は、諸行無常、自分も仏様と本質は同一であることを認識し、あくせくしたり、煩悩に悩んでも仕方がない、このことを認識することができる。煩悩に悩める人々を救い導くという仏教の役目を果たす。やすらぎ、涅槃寂静の静かな世界、現世にある小楽ではなく、大楽を感ずることができる世界。
人間の側から見れば、自らを実体ある存在と思い込み、認識している。 煩悩にまみれ、日々生きている。自ら煩悩に悩む世界に身を投じ、苦しんでいる。
人間は、今ある自分の姿しか見えないため、自分を実体のない存在などとは考えない。 このような考え方を抱く、多くの人々を救うのが、仏教の役目であると同時に、人々の方から、仏教に救いを求めてくる。
人生は、諸行無常であることなど考えることもなく、自分がいつかは年を取り、死んでいくことも考えない。煩悩に悩まされ、救いを求める世界である。 これらの悩める人々を仏教の教えに従い、良い方向に導くこと、仏教の教えをひろめ、教え導くことも仏教の役目である。
人々は、自分が独自の本質など持たない存在であるということに気づかない。 自分では、実体ある存在として自分を認識している。 お寺の行事、説法、仏教の教えは、こういった認識を持つ人々を対象として行われ、またそういった人々がお寺に救いを求めに来る。
人々は、仏教の教えにより、より良い方向に導かれていく。 仏教では、法話、お経、仏像、行事、所作など、色々なものを用意し、全力投球で、人々を教え導くために努力を続けてきた。
○五大(六大)と空の関係
五大という言葉がある。宇宙の本体を構成する五要素の象徴である地・水・火・風・空を五大と呼ぶ。 六大という言葉がある。宇宙の本体を構成する地・水・火・風・空の5つの物質的構成要素には、普遍的原理、要素である。普遍的原理、要素を「理」という。
「理」法身と呼ばれる胎蔵界の大日如来。 五大は、仏教の見地から宇宙を構成する五大要素、五大元素、具体的な現象を起こさせている普遍的、根本の原理である「理」の世界、胎蔵界大日を表す。
修行し、菩提を求める心。万物は、皆仏性を持っていることを認識し、そのことを意「識」し目覚め、修行しなくてはならない。これを「識大」という。「識大」を加えて六大という。
識大は、「うん」という種字。金剛薩?である。 金剛薩?は、修行し、壁につきあたり、考えさせられることにより、智恵をしぼることになり、気づき、悟りの世界、「智」恵の働きを認識する。
金剛薩?は、修行を積み重ねた結果、「智」法身と呼ばれる金剛界の大日如来となる。 胎蔵界の大日如来も金剛界の大日如来も、同じ大日如来である。 胎蔵界と金剛界は、不二一体の世界である。
識大は、智恵の世界、金剛界大日を表す。大日如来の真理と智恵の両面をあらわした、観察表現の仕方だけであり、大日如来は両部不二一体である。 つまり、宇宙は、物質と精神面で一体のものである。
それは、大日如来そのものであり、阿なのである。 胎蔵界大日如来の種字、あ・び・ら・うん・けん、は、あばらかきゃという五字を本体として生まれた真言である。
真言は、文言を訳して、意味を理解するためのものではない。 真言全体が、一体として、声で発せられることに霊徳がある。 したがって、真言は、翻訳したものを誦するのではなく、原文のまま原音を誦する。
真言は、それ自体にご霊徳がある。 地・水・火・風・空・大の五大は、あ・ば・ら・か・きゃ、という文字、真言で表す。 この五字は、宇宙の本体を構成する五要素である、地・水・火・風・空の五大を表した文字である。この真言を誦じし、宇宙の本体たる大日如来と自身が一体となるよう、心を大日如来一つに集中しなくてはならない。
弘法大師は、(あ)諸法本不生、(ば)離言説、(ら)清浄無垢塵、(か)因業不可得、(きゃ)等虚空、 (うん)識大。五大に、うん字を加え、六大とした。
うん字は、金剛薩?の種字である。金剛薩?は、菩提心、悟りを求める心を人格化したものである。 弘法大師が言うように、(あ)諸法本不生。すべてのものの根源は、生まれたものではなく、不生不滅のものである、(ば)離言説。言葉で説明する域を離れたものである、(ら)清浄無垢塵。すべてが、塵も垢もない汚れのない清浄な世界である、(か)因業不可得。因がないので、原因を把握することが不可能である、(きゃ)等虚空。虚空と等しい大きさである、(うん)識大。智恵の精神世界を表したものである。
つまり、あ・ば・ら・か・きゃ・うんは、すべて空を表したものであり、大日如来、阿を説明したものである。
牛久成田山 真浄寺
[牛久縁切り稲荷]牛久成田山 真浄寺
[牛久縁切り稲荷]住所
(茨城トヨタ自動車牛久店の向かい側です。)牛久成田山 真浄寺からのお知らせ
境内には、薬師如来尊、愛染明王尊、荼吉尼天尊などの仏様が、祀られています。
真浄寺にある鳥居は、下記に記した門を意味します。
身体、心、性格、人格の病いに適合する法薬を与え、苦しみを取り去り、安楽にさせてくれる仏様です。
七福神は、福徳をもたらす神。
大黒天、毘沙門天、恵比寿様、寿老人、福禄寿、弁才天、布袋様の七神。
七福神のうち、恵比寿様は、日本の神様。大黒天、毘沙門天、弁才天は、インドの神様。寿老人、福禄寿、布袋様は、中国の神様。 真浄寺の弁天様の化身は蛇です。
蛇の力は強い。財福をもたらしてくれると信じ、 心から力を込めて強くお祈りしましょう。縁切り祈願。
原因があり、縁が生じ、現在の悪縁がある。縁結び、出会い、恋愛成就を願う方は、縁結び明王である愛染明王を祀った真浄寺の愛染明王にご祈願を。
文殊菩薩は、 三人寄れば文殊の知恵と言われるように知恵の神です。
学問の神とも言われます。
文殊菩薩のご利益を願い、学業成就、入園・入学、受験・資格試験・昇進試験の合格祈願で参拝者が訪れます。真浄寺に祀られている荒神様に対する礼拝は、
一礼、三拍手、一礼。縁切り藁人形(わらにんぎょう)
継続は力なり!
祈りつづける人、信じつづける人に必ず霊験あり!仏教用語