真言密教 真浄寺は、護摩による祈願を行う寺院です。
護摩は、不動護摩が最勝です。
茨城 牛久 真浄寺の護摩は、不動明王を本尊とした護摩供養。
本尊不動明王様の息災護摩による護摩供養、祈祷を行います。
病気平癒・厄除け・家内安全・商売繁昌・ 交通安全などのお願いを、 揺らめく護摩の火に、願いごとが 成就するようにと祈願します。
お願いごとは、すぐに成就するとは限りません。
良い因縁を 生じさせるため、一心に不動明王にお祈りください。
郵送でも受け付けます。
願い事と住所・氏名を書いた用紙をご郵送ください。
護摩祈祷、祈願料は、お気持ちです。
1.護摩壇の釜の炎の中に、護摩木という特別な薪を投入し、願いごとが成就するようお不動様に祈願いたします。
2.護摩の「火」にかざした物、すべてにお不動さまの御霊験御利益をいただきます。
3.護摩祈祷中は、お不動さまに手を合わせ、お不動さまのお姿を心に想像し、お不動様の御真言を願い事がかなうようお祈り、お唱えしましょう。
4.お守りや護摩札は、お不動さまの分身でありますので、清らかな場所におまつりして、お不動さまの御加護をお受けください。
5.お守りや護摩札は、願い事が成就したとき、または1年経経過したら、御札を納めにお参りください。
火祭りの意味もある。護摩(ごま)修法は、仏様の智慧の火である護摩の火により、煩悩(苦の根元)を焼きつくす修法です。
護摩修法では、御本尊のご宝前に設けられた護摩壇の周りに、香華、五穀、お供物等をそなえ、心身を浄めた導師が、中央の炉の中に護摩木を焚いて、御本尊のご供養をすることからはじまります。
真言密教の秘法です。護摩釜の火炉に薪木を入れ、点火し、燃やし、護摩釜・火炉の中に種々の供物を投げ入れ、火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたものである。火の中を清浄の場として、仏様の降臨を観想する。
なお、護摩修法には、実際に護摩壇に火を点火し、火中に供物を投じ、護摩木を投じて、祈願する「外」護摩と、自分自身の精神的、心の内に護摩壇作り、仏の智慧の火で、自分の心の中にある煩悩・業に火をつけ、焼き尽くすという、精神的、観想による「内」護摩の二種ある。真言密教では、不動明王や愛染明王を本尊として、本尊の前に護摩壇を置き、その壇の中心に護摩釜・護摩火炉を作る。
護摩釜で、護摩木を燃やすことにより、煩悩(ぼんのう)も燃やす。
護摩修法では、護摩修法の目的により、五種に分類される。
1.息災法(そくさい)、2増益法(そうやく)、3.調伏法(ちょうぶく)、4.敬愛法(けいあい)、5.鉤召法(こうちょう)。
護摩を焚くということは、護摩の修法を行うことを意味する。
護摩に必要不可欠な護摩木は、護摩釜に投じ、燃やす木である。
護摩木には大別して2種ある。
立方体、あるいは直方体に切った壇木(だんもく)という「乾燥した木」と、「生木」である乳木(にゅうもく)の2種がある。
真言宗では、ウルシ科ウルシ属のヌルデをもって護摩木とする。
護摩木は、ヌルデの異名になっている。
真言宗ではヌルデをもって護摩木とするが、インドでは、吉祥樹(インドボダイジュ)を以て護摩木する。吉祥樹(インドボダイジュ)は、一般に日本に育成していない。
このため、代わりに白膠木とも言われ、枝を折ると白色樹液を出す、白汁あるヌルデを護摩木としたと思われる。
護摩壇は、護摩をたく火炉護摩釜を据える壇のこと。
護摩壇の本尊は、通常、 護摩堂の本尊として祀られる不動明王か愛染明王であることが多い。
護摩堂(ごまどう)は、護摩を焚き、護摩修法を行うための仏堂を言う。
本尊は不動明王か愛染明王。
護摩堂では護摩が、数多く焚かれるので、そこに祀られる本尊不動明王は護摩煙により、黒ずんでいる。
護摩札(ごまふだ)は、護摩を焚いて祈願することで、本尊の霊験を宿らせた護符を言う。
護摩炉(ごまろ)とは、護摩壇の中央に設けた護摩木をたく護摩釜火炉を言う。
護摩修法は、真言密教においては、最高の秘法であり、人間をより高度の精神的境地へ導き、生存中に即身成仏にいたる修行法である。
護摩は、身・口・意の三密の神秘的な働きにより、煩悩を示す護摩木に火をつけ、その火、すなはち、智慧の浄火で、あらゆる煩悩を焼きつくし、清め浄化するためのものです。
参拝者の祈りが、善願となって火焔に託され、護摩修法の御本尊に届けられる。
その結果、諸祈願が成就することになる。そういう修行です。智慧の火によって、108の煩悩(苦の源)を焼き尽くす。
悟り境地に至る姿、過程を体現することを目的にしているのが護摩です。
護摩修法は、奥深い内容を秘めた密教哲学的な意義と、真言密教の教理に裏付けられた荘厳な修法です。
合掌して、お大師さまのご宝号「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」をお唱えください。
そのため、護摩は密教(大乗仏教の一派)にのみ存在する修法であり、釈尊の直説に近いとされる上座部仏教には存在しない。
おもに天台宗、真言宗で行われる。
なお、専ら護摩を修するための堂を「護摩堂」(ごまどう)と称する。
野外でとりおこなう護摩修験道で野外において修される伝統的な護摩法要を、柴燈(さいとう)護摩という。
野外の護摩には、下記の二大修験道流派がある。
1.真言系当山派は、山中で、正式な密具の荘厳もせず、柴や薪で檀を築いたため「柴燈(さいとう)」と称する。
2.天台系本山派では、真言系当山派の柴燈から採火して護摩を修するようになったため「採燈(さいとう)」と称する。
近年では、伝統的な本山派・当山派の流派には属さない寺社でも、野外で護摩がとりおこなわれる。
名称は種々あり、火祭りなどの別称を用いて野外護摩が実施されることもある。
護摩は、神道における神社においても、神職や山伏による護摩祭が実施されることもある。
護摩札は、護摩の火(不動明王の智慧の炎)にかざして力が込められた、不動明王のご分身ご分霊です。
神棚や仏壇、目線より高い清らかな場所にお祀りし、毎日不動明王ご真言をお唱えして、諸願成就をご祈念ください。
護摩によって、皆様の煩悩を焼き浄め、大厄を消除し、家内安全、商売繁昌、病気平癒、心願成就など、開運の祈願の修法がなされます。
●護摩 真言密教の修法、護摩供。 護摩供は、護摩の火の本質を「観」じる真言密教の修法。
護摩壇の中央に設けられた護摩釜という炉で護摩木を焚きながら修する。
煩悩をあらわす護摩木を燃やして、その炎を観じて、その炎から悟りを見出す。
護摩木という煩悩が、炎となって、即、菩提、さとりに至る。
護摩の火は、煩悩を焼く炎。
護摩の火は、人間を苦しめる煩悩、すなはち、貪(とん<むさぼり>)、 ,瞋,(じん<いかり>)、,痴,(ち<おろかさ>)。
人間を苦しめる煩悩である、貪、瞋、痴をあわせて三毒という。
むさぼり、いかり、おろかさ、という、心の迷いを、護摩の火、すなはち、仏様の智慧の炎で焼きつくしていただく。
護摩供では、仏様に、自分の所願だけではなく、人々衆生の幸せも 願うことが重要。
護摩供は、功徳の大きい行法。
煩悩即菩提を観じることで生きたままで成仏する。
このように即身成仏をはかる修法が、護摩供。
護摩供は、即身成仏をはかる修法であるとともに、衆生の諸祈願、社会平和など、所願成就も祈る。
護摩供は、自己の修法であるとともに、所願成就祈り、そのご霊験が期待できる行法、儀式でもある。
護摩供には、護摩堂の中で修するのではなく野外で行う護摩供もある。
主として、お寺の境内の広い場所を結界し、その中央にで行う。
これを柴燈護摩という。
柴燈護摩は、元来、修験道の護摩儀礼。 山間で、修行中の修験者に近づく、毒蛇、毒虫、獣から身を守るため、火を焚いたことから始まったと言われる。
修験道での護摩は、主に室内で行われる真言密教の護摩供と、民間信仰の火祭の要素を持ち合わせた形に発展した。 野外で火を焚くのが、修験道の柴燈護摩である。
これは真言密教の護摩と民間信仰の火祭が習合したものである。
柴燈護摩は、修験だけではなく、寺院の年中行事として僧侶により行われ、参拝者や信徒の諸祈願のために行われる。
柴燈護摩は、人間の罪垢が井戸のように深いことを示すため、護摩木を井桁に積み上げる。 その回りを柴で囲み、積み上げ、火を点火し、仏菩薩を招く。
柴燈護摩の炎で、井桁に積み上げられた護摩木、すなはち、煩悩を焼きつくす。
あわせて所願成就を祈る。
護摩は、神道でも行われる。
護摩修法は一切衆生、生きとし生けるもの幸福を願い、信者の諸願成就を行い。
仏様に仕え、仏様となる即身成仏のため、仏の一員としての行、自己の修行のためにも護摩供を行する。
護摩の炎は、如来の,智火,である。 護摩の炎は、仏の一員である自分自身の,智火,である。
理具の即身成仏、すなはち僧侶だけではなく、一般の誰でもが、仏の一員、仏様である。
曼荼羅の中とつながっている仏の一員である。
自分が仏であることがわからないだけである。
自分が仏であることを護摩の火をとおして,観,じることが重要。
観じる、というのは、良く観察し、物事の真の姿を、間違いなく理解しようとよく見ることである。
護摩供の機会に、護摩供に参加した誰もが、炎を心の目でじっくり、深く、良く、観察し、仏の一員であることを,観,じることが重要です。
心の目で観て、観じることが重要。
護摩の炎は、仏である。
また護摩の炎は、自分でもある、と観ずる。
護摩の火は、仏と自分が、一致することをしめしてくれる。
自分が護摩の火となり、火となった自分が、日本全国、全世界、全宇宙をおおいつくし、つつみこむと感じ、平和や人々の幸福、所願成就となるよう、心を尽くし、おおいなる心で、広大無辺な慈悲の心で、万物の上に、慈悲の光をあてるのである。仏様となるのである。
護摩を修する行者は、護摩供修法の間、仏様、行者自身、信者、この三者が、一つにとけ合うことを常に念じ、修しています。