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縁切り祈祷、縁切り護摩は、縁切り寺・神社・寺院で有名な牛久縁切り稲荷へどうぞ


[お知らせ]

※2022年5月、真浄寺が、縁切り寺として、雑誌の記事に掲載されました。


※2022年4月、真浄寺で行っている「縁切り」についてテレビの番組の中で紹介されました。


※2018年2月、「茨城の怖い話(著者:寺井広樹,一銀海生)」という本に、真浄寺の|牛久縁切り稲荷|について「藁人形と縁切寺」 として掲載されました。





【縁切り藁人形は、藁人形と縁切りの関係を密教の教理と行、ご本尊さまのご霊験等に基づいています。

縁切り藁人形は、独特の密教による特殊なバックボーンと唯一無二のご本尊様等により成り立つものであるため、同じことはできません。

従って、日本全国で、唯一、真浄寺だけで行われているものです。

もし真浄寺の牛久縁切り稲荷以外で、縁切り藁人形があれば、それはすべて模倣です。

縁切り藁人形の持つ深い意味も知らずに、縁切り藁人形と称しただけ、また模倣して利益を得ようとする人の心根に鑑み、ご利益も見込めません。

人形は宇宙法界の一部であり、世間的観念から、恐ろしい面があることを知らなければなりません。】




牛久縁切り稲荷真浄寺では悪縁切りの祈祷を不動明王護摩により修します。縁切り神社、縁切り稲荷、縁切り寺、悪縁切りの真浄寺です。



〇縁切りのことはご利益が期待できる牛久縁切り稲荷真浄寺へお越しください。

悪縁を切れば悪縁は断絶する。

それが縁切り稲荷のご霊験です。

因果関係において、原因に悪い要因が関わったから悪い結果が生じる。

悪縁は、原因に与えられた悪い件、悪影響要因のことである。

つまり、原因が同じでも、原因に及ぼす影響要因や条件が悪ければ結果は悪くなる。

従って、既に生じている悪縁を消滅させるには、悪縁の原因となっているものに与えた悪影響の要因や条件を断ち切る必要がある。

条件や状態、状況、影響要因を良縁に変化させることで、現状の悪縁を良縁に変化させることが可能である。

良縁に変化させる力は、目に見えない力、不思議な力、縁切り稲荷の力です。仏様に祈ることは悪縁に変化を与える要因の一つとなる。

牛久縁切り稲荷の不思議なご利益を期待し祈願することは現状の悪縁を打破することになる。



〇悪縁切り、悪縁断絶をご希望の方は一度、縁切り稲荷をお参りください。

悪縁を切るにあたって、まず縁とは何かということについて考えてみます。

大きく分けて二つの縁の流れがあります。

一つは、人と人のつながり、親族、友人、知人、地縁など人と人のかかわりあいという場合の「縁」。

もう一つは、結婚できない、就職できない、希望校に合格しないなど、何をやってもうまくいかない、あるいは災難、不幸に合う、良いところに就職できない、運に見放されている、幸福感がないなど、目に見えない「縁」。

切りやすい縁と切るのが難しい縁があります。

切りやすい縁は、相手の同意を必要とせず、一方的に縁を切れる場合。

切るのが難しい縁は、相手の同意を必要とする場合、または相手の同意を必要としなくても、縁を切ると、人間関係、経済関係その他の関係に悪影響を及ぼす場合、あるいは運が悪いなど、目に見えない悪縁を切る場合です。

因縁とは、元となる原因(因)に、時間の経過とともに間接的原因が加わり結果が生じた場合の、間接的原因(影響を受けた要因)を縁と呼ぶ。

因縁という言葉にあるように、元となる原因という種(たね)自体に、元々、悪縁を生む原因があれば、悪縁が生じる。

たとえば結婚の場合、元となる原因である男と、女の相性が悪い場合、結婚生活の中で、色々な影響を受けなくても悪縁となる。

因縁という言葉にあるように、元となる原因に、月日を経る中で、間接的原因である色々な影響や状態が加わり、悪縁状態と化す場合。

結婚の場合、元となる原因である男と女の相性が悪くない場合、結婚生活の中で色々な影響(縁)を受けて、結果として悪縁となる場合、あるいは仕事の場合、仕事場の環境、仕事場の人間関係という条件を受けて、結果として悪縁となる場合がある。

前世も、この世も、来世も、全世界も、全宇宙も、時空を超えても、すべて、かかわりがあり、縁でつながっている。

このように複雑に絡み合った「縁を強引に切る」のではなく、円満に「縁を切る」場合は、固い意志を持って、祈願し続け、絡み合う縁を少しずつほどいていくように想う必要があります。

また上記のように色々な「縁」のかかわりの形がありますので、「縁」のかかわり内容によって、臨機応変に対応することが大切です。



〇縁切り

あの縁消滅すれば、この縁も消滅する。

あの縁が無かったならば、この縁も無かった。

この縁を切れば、この悪縁関係は消滅する。

一旦、悪縁が切れれば、悪縁が生じないよう気をつけるだけである。

この世のすべては、縁、依って存在する。

縁を切れば、今の嫌な関係が消滅する。

縁を切るには。

離婚、別れのように生じている縁を、自分の意思で切る。

離婚、別れのように生じている縁を、相手が切る。

生じている縁を、他人が切る。

生じている縁が、偶然性によって切れる。

仏に縁を切る祈願し、仏の加持が自分の悪縁切り祈願に加わり、祈願者の身業、口業、意業に観応が現れ、仏の慈悲により、不思議にも縁が切れる。

人の力では、悪縁を切ることは可能だが、円満に切れないとき。

どうしても悪縁を切ることが困難なとき。

このような悪縁を切るには、仏の慈悲にすがることも良い。

仏とのご縁により、仏の慈悲をいただけることがある。

男女の縁、友人の縁、知人の縁、家族の縁、仕事の縁、すべて縁に依存している。



〇悪縁が消滅すれば、あの縁も滅す。

あの縁が滅すれば、良縁が生ず。

このように縁の発生、消滅に伴い、運命を変えることができる。

諸行は無常である。

今、悪い状況でも、縁の発生、縁の消滅により、良くなったり、さら

に悪くなることもある。

縁により、悪い状況が、どんどん悪くなっていく。

縁により、悪い状況が、悪いまま現状かわらず。

縁により、悪い状況が、良くなる。

縁により、悪い状況が、良くなったり、悪くなったりする。

縁により、良い状況が、さらに良くなっていく。

縁により、良い状況が、良いまま現状かわらず。

縁により、良い状況が、悪くなる。

縁により、良い状況が、悪くなったり、良くなったりする。

この状況が、良くなったり、悪くなったり、何も変わらなかったり

することを人は運命と呼ぶ。

大乗仏教では、この縁によってしようじていることはすべて、虚構、仮のもの、幻想にすぎないとする。

一切が、皆、空である。

人間自体、縁に依って生じたもの。

人間が、何の縁にも依らず独自に存在していれば、老化もせず、痛みも無く、何も変わらないはずである。

これは仏教的観点、仏の観点である

真諦での考え方の問題である。

生き方の観点である。

俗世間で実際に発生したすべての問題を解決できる観点ではない。

凡夫は、俗世間、仮の世界、虚構の世界で生きている。

俗世間、仮の世界、虚構の世界での問題は、その世界で解決する。

俗世間の現実問題として、たとえば夫の暴力は存在し、殴られれば痛みや怪我もある。

仮のことであっても、凡夫にとっては、解決しなければならない問題である。

仮のことであっても、凡夫にとっては、この夫との悪縁を切らなくてはならない。



〇|業|のによる見地から、縁切りを考えて見る。

業の見地からは、たいていの人は、前世の業を背負って輪廻転生、この世に生まれてくると言われる。

たとえ親、兄弟、子供であろうと、前世では、まったくの他人、各々個々人。

前世では、それぞれの家族は別の人生を送り、業を背負う。

たいていの人は、前世の何らかの業を背負って亡くなる。

前世では、まったく別人格の人が、ご縁で、この世では家族になる。

この世で、同じ家族の一員になったというご縁はある。

しかし、家族の誰かに、何か問題が起きた場合は、それは、その人の業がなせることである。

それが、他の家族に悪影響を及ぼしても、それは、家族とか、先祖とか、運が悪いということではない。

業を背負った人、個人の問題であるということになる。

つまり、家族全体としてではなく、個々人の業はどうなっているのかという点を考えるのが、業の見地である。

これは、業の見地からの見方であり、神仏に祈願することで、ご霊験、ご利益、不思議なことが、偶然にも、起こることも、起こらないこともある。

これは間違いない。

従って、ご利益があろうが、なかろうが、神仏に祈願することは良いことである。

神仏とのご縁をいただくことは、良いことである。



〇縁切り祈祷、縁切り祈願と決意

別れたい、離婚したい、かかわりあいたくない、出ていってもらいたい。

縁を切り、新しい縁が生じるよう待つ、あるいは積極的に動く。

運命が変わっていく機会を縁切り祈願で。

良い縁の出現で、それに連動し、悪い縁が消滅しますようにと祈願。

縁切り祈願を神仏に願えば何か不思議なことがあるかも知れません。

ないかも知れません。

ここが不思議な神仏のご霊験です。

牛久縁切り稲荷に参拝し、ご祈願ください。

牛久成田山真浄寺のご本尊、不動明王にも縁切りを祈願いたしましょ

う。

継続して、願うところに霊験ありです。

牛久縁切り稲荷のご本尊、ダキニ天。

ダキニ天が、人肉を食べる様子が曼陀羅に描かれています。

ダキニ天は、恐い仏様です。

恐いからこそ、一心に祈願すれば、ご霊験も期待できます。

悪い縁も、食べていただき、悪い縁を切る。

人肉を食べるような強烈な力を持ったダキニ天が、悪縁を消滅に力を

与えてくれる。

ダキニ天のお慈悲にすがりつき、加持をいただけるよう、縁切り祈願

をする。

祈願にあたっては、きれいさっぱりと縁を切るという祈願する者の、

強い決心も必要です。

継続は力なりです。

神仏祈願は、参拝せずとも、心に思いついたら、心の中で手を合わせ

て、縁が切れるようにと、お願いしましょう。

毎日毎日、心の中や口に出して、牛久縁切り稲荷を思い浮かべて、お

祈りください。

ご利益、ご霊験を考えずに、ただひたすら、牛久縁切り稲荷に祈るこ

とです。

悪縁断絶祈願と良縁発生祈願は両方同時に祈願するものです。

この世の中すべて、縁に依存しています。

縁が変われば運も変わる。

この世の中、日々、良い縁も発生しては消え、悪い縁も発生しては消

えています。

良い縁は、気がつかない、見逃していることが多いのです。

その良い縁を見逃さず、逃してはなりません。

悪い縁は気になりますが、良い縁には気がつきません。

良い縁を当たり前のことと思いがちです。

日々、何も変わらない普通のことと思っている状態が、良い縁です。

日々、何ごともなく過ごす時間があることが、良い縁の一つです。

婚姻関係を解消する、男女関係を解消する、家族関係を切りたい、ギ

ャンブルから縁を切りたい、病気から縁を切りたい。

神仏まかせではなく、明確に何の縁を切りたいという強い意思で、ダ

キニ天、縁切り稲荷に祈願すること。

嫌な人間、絶好したい人間との縁は、切りたい。

嫌な人とは、会いたくもない、顔を見たくもない。

悪縁は、悩み、苦しみのもとになります。

自分積極的行動、あるいは自分の行動を差し控える、よけいなことは

しない。

これと縁切り祈願を組み合わせ、その相乗効果により、切れるかもし

れません。

牛久縁切り稲荷に祈願することは、人生を見直すこと、自分自身を変

えるという機会にもなります。

長い人生、心変わりはあわります。

一度は愛した人と別れなければならないこともあります。

縁を切りたいと決断すれば、一歩を踏み出すことが重要です。



〇縁切り

縁切りとは、,悪縁,だけに限定して断ち切ることである。

自分では、悪縁と思っていても、実は、良縁であることがある。

真実、悪縁,か良縁,かの判断は、誤らないようにしなくてはならない。

このことが一番重要である。v

牛久縁切り稲荷のご本尊であるダキニ天尊は、人間のような愚かではないので、悪縁だけを断ちきってくれる。

本人が気づいていない悪縁がある場合、牛久縁切り稲荷のご本尊であるダキニ天尊は それを見抜き、悪縁を断ちきってくれる。

つまり、自分では、信頼し、良い人だと思っていた人が、実は、自分の運命、人生を阻害する人間であったという場合も、その悪縁を断ちきってくれる。

但し、基本は、神仏まかせではなく、明確に何の縁を切りたいかというハッキリした意思を持って、自分の強い意思で、牛久縁切り稲荷に祈願お参りすることが重要である。

生活をしていく中で、嫌いな人間、かかわりたくない人間との縁は、切りたいと考えるのは、誰でも思うことである。

特に、恋愛関係を切りたくなる場合が、発生するのは日常茶飯事のことである。

悪縁は、人間を悩ませ、苦しめさせる煩悩の原因にもなります。

自分で解決できない場合は、牛久縁切り稲荷に祈願し、悪縁が切れるようお願いしましょう。

もちろん神仏だけに頼り、祈願するだけではなく、自分でも悪縁が断ち切れるよう積極的に動かなければいけません。

神仏にお願いするのは、補助的手段であり、危険性のある悪縁もあるので、警察,行政機関,経験豊富で問題解決実力のある方に相談することが必要な場合もあります。

一般的な差し迫った危険性のない悪縁を断ちきりたいが、解決の糸口が見つからないとか、面と向かって縁を切りたいと言い出しにくい場合、人智を超えた神仏にすがることは、間違っていません。

神仏を祈願することで、人間が救われることもあるのです。

牛久縁切り稲荷のダキニ天尊は、男女関係の悩み、ご参拝の皆様の縁切り祈願を受けとめ、縁切り祈願を、かなえてくれます。

牛久縁切り稲荷は、切りたい悪縁と、結びたい良縁、続けていたい良縁を判断し、悪縁だけを断ち切ってくれる。

牛久縁切り稲荷は、小さな稲荷大権現さまであり、町中にひっそりとたたずむめだちません。

牛久縁切り稲荷には、男女間のトラブル,ギャンブル,薬物中毒,悪い癖,病気,家族関係など、の悪縁を切りたくて、全国から参拝者が訪れます。

義理の両親と縁を切りたい,しつこいストーカー男と縁を切りたい,パチンコと縁を切りたい,煙草をやめたい,お酒をやめたい、夫の浮気の縁がきれるようにとか,元カレから連絡が来ませんようにとか、悪縁が切れることを切実な気持ちを持った悪縁を断絶したい方が、どれほどこの日本に沢山いることか。

病気や酒など、人間以外の悪縁も、牛久縁切り稲荷では、断つことを祈願できます。悪縁を断ち切れば、良縁が、発生したり、息を吹き返す機会となります。

新しい良縁を願う前に、今の悪縁を断ち切る、悪縁を整理する必要があります。

悪縁を断ち切れない方、ぜひ、牛久縁切り稲荷にご参拝しましょう。

同じ境内にある、真浄寺のご本尊,不動明王のご霊験は、縁切り祈願のご利益もあります。

牛久縁切り稲荷で、一心にひたすら、縁が切れますようにと祈りましょう。

縁切り祈願をする行動、自分自身に踏ん切りをつける良い、きっかけとなります。

縁を切るという強い意思を後押ししてくれるのが神仏です。 自身の行動と神仏祈願により、結果として、その相乗効果により、悪縁が切れるということになります。

自分自身の縁を切りたいという心を、牛久縁切り稲荷が、あなたが一心に祈願されること対し、その後押しをしてくれます。

自分自身のこの縁を切る行動は、あなた自身を精神的にも強くしてくれます。

自分自身の人生を見直すこと、自分自身を変えるという、精神的に強くなるという意味からも、牛久縁切り稲荷への祈願は重要なことだと言えます。

長い人生、人間の考えは変わります。

一度は愛し彼と別れなければならないこともあります。

それが、幸か不幸わかりませんが、縁を切りたいと自分で決めたことについて、一歩を踏み出すためにも牛久縁切り稲荷へご祈願のためご参拝ください。

悪縁がなかなか切れず、苦しむことも多々あります。 悪縁を切り、新しい良縁を結び、お助けしてくれるのが、茨城県牛久市にある,牛久縁切り稲荷,です。



〇|縁切り|

現在、縁切り寺・縁切り神社と呼ばれる悪縁を切るお寺や神社がある。

そもそも縁切り寺の出発点、江戸時代は、駆込寺(かけこみでら)、駆入寺(かけいりでら)と言われ、男子禁制の尼寺であった。

江戸時代に一般庶民が、離婚する場合、仲人・親類・五人組など、他人が、夫婦の間に入って、夫婦間の離婚に関する調整をした。

内済(示談)離縁が一般的であった。

この方法でも、形の上では、夫側が、離縁状をだし、それを妻受理することが必要であった。

つまり、夫側にのみ離婚を申し出することが認められ、妻には離婚申し出の権利はなかった。

縁切り寺は、元来、女性である妻を守ることに意味があった。

このため妻が駆け込む寺は男性を寄せ付けない尼寺であった。

妻の側から離婚申し出が許されなかった男尊女卑の封建体制のもと、このような理不尽なことに対する、妻の救済方法としてお寺に駆け込めば、離婚できるようになってた。

尼寺であれば、どこの尼寺に駆け込んでも、一定の条件を満たせば、妻からの離婚が認められた。

寺院法では、縁切り寺に対して、妻側からの離婚請求を受け、妻を保護し、離婚調停を行う特権が公的に認められた。

縁切り寺は、妻の幸福を第一に考え、妻側の縁者を呼んで、まず復縁してはどうかと諭す。

どうしてもそれを妻側が承知しない場合、お寺は、夫に対して、示談による離婚、すなはち、内済離縁という方法により、離婚を求める。

お寺の行う調停方法は、夫側を駆け込んだお寺に強制的に呼び寄せ、離婚に関する事情聴取を行う方法をしながら離縁を成立させる方向で調停を行なった。

縁切り寺の調停特権は、幕府によって担保されており、当事者が、召喚や調停に応じない場合、寺社奉行などにより当事者である妻側・夫側に応じるよう強制された。

縁切り寺の調停管轄権は、日本全国に及んだ。

日本全国どこの領地の者であろうと、縁切寺の離婚調停権に服するものとされた。

縁切寺で妻が離婚を勝ち取るには、尼として数年間、寺入り(在寺)する義務があったかのように理解されているが、寺入り(在寺)するのは、調停が不調となった場合

の最終手段であり、実際には、縁切寺の調停により離婚が成立し、親元に戻るケースが大部分を占めていた。

縁切寺に駆込んだ妻を縁切寺が、保護すれば、もはや夫は、妻を取り戻せない。

男子禁制の尼寺ならば、夫は縁切り寺に、立ち入ることができない。

夫の手の届かない縁切寺に、一定期間、在寺すれば、当時の観念として、もはや夫婦ではないと認められた。

縁切寺に入り、寺法による離婚手続きに入れば、夫が、抵抗しても奉行や代官によって離婚が強制されることになる。

寺に入った妻は、本人の希望があれば別だが、出家し尼僧にはならない。

妻の出身階層や妻もお寺に対して支払ったお金などで、お寺での仕事内容が異なってくる。

お寺のお勤めを足掛3年(満2年)行った後、離婚した身として、お寺から出て、自由に生活することが認められる。

現代の縁切り寺、縁切り神社の祈願は、悪縁を断ちきるため祈願するものであり、良縁の出発点にしてほしいものである。



〇|縁切り|

ヒンドー教では、女神カーリー侍女。

人間を喰らう悪鬼。 仏教では、邪心を喰らう神。生きた人間の肝や肉を食べていたのが、死んだ人間のものだけを食べるようになった。

このような強烈な力と勢いを持った荼枳尼天こそ。

しかも、神秘的霊力を持つと言われる白狐(びゃつこ)を「眷属」、「つかい」として、したがえているため、その祈願達成力は、はかりしれない。

このダキニ(荼枳尼天)こそ、「縁を切る」というキッパリとけりをつけなくてはならない、力のいるお願いをかなえてくれる。

ただ神様仏様に一回参拝すればお願いがかなうという甘い考えを捨て、毎日毎日、心の中や口に出して、牛久縁切り稲荷の稲荷大権現の荼枳尼天(ダキニ天)にお祈りをしつづけてください。

そうすれば、必ず、霊験が現れることを信じて、祈りつづけてください。

ところで、ダーキニー神の正体とされる仏様は、天部の荼枳尼天、この場合の、荼枳尼天を本地仏という。

仏教における、このような考え方、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説とは、神仏習合思想の一つである。

日本の八百万(やおよろず)の神をはじめ、インドのヒンドー教の神も、仏様の化身であるとされる。

日本では、たとえば、牛久稲荷大「権現」のように、仏様の天部の神として、化身として、日本の地に現れた権現(ごんげん)である。

ところで、権現の「権」とは「臨時」のとか、「仮」のということを意味している。

すなはち、仏様が神様の形を取って、「仮」に現れたことを意味するのである。

神様の本当の正体「本地」は、「仏」様である。

「本地」とは、「本来の境地」や「本来の在り方」を意味する。

「垂迹(すいじゃく)」とは、「迹」(あと)を「垂」れるということを意味する。

すなはち、仏様が神様の形でが現れることを言う。

仏様が衆生(しゆじよう)を救うため,「仮」に神の姿となって現れることを言う。



〇|縁切り|

稲荷明神は、稲束を背負った神さまで、記紀に登場する食稲魂命(宇迦御魂)である。

稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり、「稲荷」の字が宛てられた。

この神は京都・伏見稲荷大社に祀られている。

食稲魂命のお使いも、キツネとされたのは、キツネを神聖視する(日本人が狐を神聖視するのは、キツネを田の神の使い、ご先祖さまの化身と考え、稲の天敵であるネズミを食べたり、予知能力があると信じられていた。 )

荼枳尼天(ダキニ天)のお使いが、キツネであることが影響を与えたと考えられる。

食稲魂命は、荼枳尼天(ダキニ天)と同郷・インドの神である宇賀神やその妻ともいわれる弁才天(眷属は共に白蛇)とも同一視されるようになる。

稲荷神は、記紀神話系の稲荷明神と仏教系の稲荷権現という2つのルーツを持ち合わせた神さまといえる。

稲荷権現のキツネは、本来は日本のキツネではなく、インドでは、頭に角が生え、頭も良く、狡猾な山犬に近い、野干(やかん)<ジャッカル>であった。

イヌ科食肉目のジャッカルである。

日本や中国にはいない動物で、狼やコヨーテに似ていて、キツネよりは小さく、木登が得意といわれる。

インドのジャッカルが、中国では、キツネとなったため、中国から、キツネであるとして、日本に伝わった。

インドのダーキーニ<荼枳尼天(ダキニ天)>は、女性の神様であり、尸陀林(しだりん)という、死体捨て場、刑場でもあった地域にすんでいた。

そこで生きた人間の心臓や脳を食べたとされる。またその能力は子供を衰弱死させることもできた。

尸陀林(しだりん)をなわばりとして、生きるため、人肉をも食料としていたジャッカルとは同じ釜の飯を食べていたもともとの仲間だったと言える。

このことにより祟り神としての側面も強くなったといわれる。

その後のダーキーニは、仏教界では、閻魔天の一族に組み入れられる。

同じ閻魔一族の野干(やかん)<ジャッカル>をお使いとして、通力自在の神となる。

大日如来の命により、大黒天(大日如来の化身)は、インドの神様ダーキーニを降伏させ、仏教の天部の神に荼枳尼天(ダキニ天)とした。

密教・真言宗における文珠菩薩はダキニ天法の観念法においては、荼枳尼天(ダキニ天)の変化とされている。

つまり文珠菩薩はダキニ天なのである。

大日如来の命により、ダキニ天は、人間が、生きているときではなく、死んでから、すなはち死ぬと同時に、人間の心臓を食うことを許された。

荼枳尼天(ダキニ天)が未来を予知し、望みをかなえてくれる神となったのは、できるだけ早く、人の死を予知して、新鮮な人間の心臓を喰らわんがためと言われる。

荼枳尼天(ダキニ天)のこの予知能力を利用するための術が、密教の修法の一つ、「ダキニ天法」である。

後醍醐天皇も、怨敵に勝ち政権を奪回するため、「ダキニ天法」を修したとされる。

しかし、これらは邪法とされたため、荼枳尼天(ダキニ天)は大衆のニーズに合わせ、福徳神としての性格を前面に出すにいたった。

江戸時代になると、稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになる。

お稲荷さんのキツネは、稲荷「神」である、という誤解が一般に広がった。

この頃から稲荷神社の数が急激に増えたため、流行神(はやりがみ)と呼ばれた。

江戸時代には、稲荷神は、農業の神・工業の神・商業の神・屋敷の神として、福徳開運の神とみなされるようになった。

稲荷神の勧請の方法も容易になり、申請方式となった。

これにより農村だけでなく、町人、武士にも盛んに勧請されるようになった。

また芝居の神にもなり、芝居小屋の楽屋裏には、必ず稲荷明神の祭壇が設けられた。

このようにして、武士から町人にいたるまで、そのニーズから、お稲荷さん人気が高まり、今日にいたっても、稲荷神が、各地で祀られ、存続している。

インドの神々は「天」という神号で、大乗仏教の天部に取り入れられた。

日本の神が日本仏教に取り入れられた場合、「本地垂迹」に基づき、権現という神号が用いられた。

ヒンドゥー教の権化の信仰が,日本の本地垂迹説と合体し,日本固有の神々を権現と呼んで、仏の性格をもたせることになった。

荼枳尼天(ダキニ天)は、日本では狐に乗ると考えられ、稲荷神と習合されるようになった。

しかし、その後、権現という神号は、明治維新の神仏分離令で権現様の多くが廃された。

「権現」の神号、「修験道」が禁止された。

権現の神々は、神社の神様に変化した。

修験道の神々は、神道の神々として変化した。

稲荷神社では、狛犬ではなく、宝玉をくわえたキツネの像が置かれることが多い。

稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である。



〇|縁切り|悪縁|と|良縁|

仏教において基本となる「縁」の概念には、良縁・悪縁の別はありません。

良縁も悪縁も、縁なのです。

生じた後、影響を及ぼした結果が、良縁とか、悪縁と呼ばれます。

縁は、ただ生じたもののことであります。

従って、それ自体、良いとか、悪いとかという概念のものではないのです。

ただ生じたもの、それだけです。

しかし、縁が、生じた後に、現実の人間社会では、自分にとって、悪影響を及ぼす縁は、悪縁と呼ばれ、良い影響を及ぼすものは、良縁と呼ばれます。

生じたものは、必ず、滅します。

諸行無常です。

生じた縁、良縁も悪縁も、滅します。

世間虚仮です。

この世のすべての現象、すべての物は、すべて仮の物、虚です。

唯仏是真、唯一、生じたものではない、大日如来のみが、永遠の真実です。



〇|悪縁|と|良縁|

日々、何事もなく平穏に暮らしていけることは、普通のことではなく、

良い縁に依って、良い縁に恵まれているということになります。

健康に日々過ごしていることが、あたりまえと思いがちですが、普通のことではなく、良い縁に依って、良い縁に恵まれているということになります。

自分の身体の中の良い細胞の働きで、病気の発生を抑えてくれていたり、良いご縁で、丈夫な骨、丈夫な臓器、丈夫な身体の人は、それだけで良いご縁に恵まれているということになります。

そもそも人間に生まれたことだけでも、この上ない、良い縁に恵まれたことになります。

健康を失うこと、病気になったり、怪我をして、はじめて、健康のありがたさを感じます。

怪我をすると、悪縁、運が悪いと感じる人もいます。

つまり、怪我をしないことが、良縁、運が良いということです。

日々、平穏に暮らしていることが、良縁、運が良いということです。

凡夫は、俗諦の世界の中で、日々、何事もなく、平穏に暮らしていけることは、良縁、運が良いということです。

願いが叶ったという場合も、良縁、運が良かったということだけです。

それは、長く何事もなく、平穏に暮らしていけることのすばらしさも同じように、良縁、運が良かったということです。

諸行無常です。

いつ平穏な暮らしができなくなってもおかしくはありません。

日々の暮らしの平穏さ、健康に感謝し、大切に時をすごしましょう。



〇|縁|を考える

次から次へと湧いてくる、途切れることのない欲望、反省しても、また湧いてくる欲望、忘れよう、離そうとしても切り離すことができない執着心。

自分さえ良ければ他人のことはどうでもよい、傷つけてもおかまいなし他人の欲望や執着心のために、自分が傷つけられる。

故意ではないにしろ他人の執着心が原因の縁。

他人の故意による縁。

相手のことを一切考えない他人の一方的な縁。

他人から暴力、DV、パワハラ、いじめ、などは、自分自身の力、神仏祈願ではなかなか解決できないことが普通です。

実害の発生する悪縁は、神仏祈願とともに、他人の力、法律の力、悪縁の源から逃げる、遠ざかることが必要です。

緊急性、危険性がある事柄は、神仏に縁切り祈願することより、まず安全な場所に避難し、逃げることが必要です。

偶然や自然が、原因の縁により自己に被害が発生しないようにするには、不思議な力に頼らざるを得ない。

善行、功徳、布施、孝行、神仏信仰、生き物を大切にする、守護霊を信じる、先祖を大切にするなど、日頃の行いが、不思議を起こすことがあります。

そんな非科学的とか、そんな馬鹿なことがあるわけないとか、先祖の霊、守護霊などないとか、神仏への信仰など無意味という人もいます。

それは、内心の自由です。

他人に考えを押し付ける必要はありません。

神仏に祈願すると、気持ちがすがすがしい、何か晴れ晴れした気持になります。

このような気持を与えてくれることが、神仏のご利益です。

人間は、精神的に弱い人もいます。

自分の弱さを強くしたいという不動の信仰心は、剛健な不動明王のお力にすがりつき、熱烈に信仰することも良いのです。

他人が原因となる縁、ふりかかってくる悪縁を不動明王への熱烈な信仰心ではねのけることができる場合もあります。

病気という縁により、自分自身が病気になった場合、自分の意思だけでは、病気を克服することは困難です。

諸行無常、一切皆苦です。

自分自身でさえ、縁に依って、肉体、精神がつくられているだけです。自分自身が、一切縁に依らず、独自に存在しているならば、肉体も精神も永遠にそのままで、なにも変わらない。

変化しないから、病気にもならない、細胞も何等の変化もしない、老化もしない。

空の観点からは、縁により発生したものは、一時的に存在しているだけで、縁によって、いつでも変化するもの。

悩みも苦しみ自体も縁により変化する。

つまり、変わらない実体もない。

縁を切っても、次から次へと湧いてくる、縁。

自分の肉体、心の縁、他人の縁、自然・動物・その他の縁、生きていても、死んでも、何らかの縁にかかわってくる。

この世の中、空、であるから、縁に依っているのであるから、縁が変われば、この俗世界では、いわゆる運も変わる。

空の観点からは、縁自体も、仮、虚。



〇|縁切り祈願|

縁切り祈願に、寺社へ参拝した結果、祈願が成就する場合、成就しない場合があります。

何度も、何度も参拝を繰り返した結果、祈願が成就する場合、成就しない場合があります。

ある寺社では祈願が成就しなかったが、別の寺社で祈願が成就する場合があります。

ある寺社へ祈願すると不思議、何度も祈願がかなうこともあります。

しかし、同じ寺社に他の人が祈願に行っても祈願がかなわない場合があります。

このことは占いについてもあてはまります。

ある人は占いの結果があたりますが、別の人にはまったくあたらない場合があります。

人間は、占いの結果が、当たっている思いたくなり、少しでも、当たってい

人間はこじつけても当たっていると考える傾向にあります。

祈願のご利益も同じです。

縁切り祈願は、祈願する人のご縁、自力が、祈願成就するご縁とちょうどタイミングが合った場合、祈願成就となると思います。



〇|悪縁切り|くされ縁切り|別れたい|離婚したい|

同棲相手と別れたいが、同棲相手が別れてくれない。

離婚したいが、相手が別れてくれない。

つき合っている彼が別れてくれない、彼女が別れてくれない。

嫌な友人と縁を切りたい。

嫌な知人と縁を切りたい。

近所の嫌な人に近寄って欲しくない。

兄弟姉妹と縁を切りたい、かかわりたくない。

親子の縁を切りたい。

先祖の悪因縁を切りたい。

悪霊から縁を切りたい。

生霊から縁を切りたい。

悪運から縁を切りたい。

何をやってもうまくいかないので、悪縁を切りたい。

嫌な上司、嫌な同僚から、離れたい、人事異動で、縁を切りたい。

不倫をやめたいので、不倫相手との縁を切りたい。

すべては、縁に依って生じている。

こちらに被害が及ばない、危害が加えられないように、できるだけ円満に解決したい。

秘密裏に、神仏に縁切り祈願をしたい。

悪縁の方から、縁を切りたいと縁を切って欲しいと申し出るようにしたい。

このような場合、相手に知られないで縁切に影響を及ぼす方法として、神仏祈願が考えられる。

相手が知らず知らずのうちに神仏の霊験の影響を受けて縁切りを申し出る。

このようにうまくいけば、縁切りが、円満にいくのである。

何事も精進、努力が必要です。

神仏への祈願も精進、努力を繰り返すこと大切です。

何事も信仰心が、自分に力を与えてくれる。

神仏への信仰心により、神仏の強い力、強い身体、強い心が、我に身につきますようにと祈る。

強い信仰にご霊験あり。



〇|縁切り|と|神仏祈願|

こちらに被害が及ばない、危害が加えられないように、できるだけ円満に解なぜ縁切り祈願をするのか。

相手ともめたくないので、縁を切りたい相手の方から、こちらに対して、縁切り、別れ、絶縁、絶交、離婚、申し出て欲しいという場合。

嫌な上司と離れたい、嫌な同僚と離れたい等、人事異動のように自分の力では、実現できない縁を切りたい場合。

悪霊、生霊、悪因縁、悪運、訴訟、もめごと、のように自分の力では、どうしょうもない悪縁を切りたいという場合。

このような場合は、人知れず、密かに、神仏に縁切り祈願をするきっかけになります。

神仏以外に、縁切りを祈願する方法はない。

目に見えない大宇宙の真理、神秘の世界、仏の世界に呼びかけ、仏に縁切りをお願いする。

仏の大慈悲がいただければ、目に見えない仏の力が、はたらき、不思議にも、良い方向に縁が、変わってくる。



〇|縁切り祈願|の内容は、さまざま

|縁切り祈願|には、DV、家庭内暴力夫と別れたい、ギャンブル夫と縁を切りたい、借金から縁を切りたい、夫と浮気相手との縁を切ってくださいとか、不倫相手が、奥さんと旦那が別れるように縁切り祈願したり、職場の上司や同僚が別の部署に異動するよう祈ったり、あるいは病気と縁が切れるよう祈ったり、子供が気に食わない相手と交際している場合、引き離し、縁が切れるようにと親が縁切り祈願する場合、親子の縁を切りたい、兄弟姉妹の縁を切りたい等、色々あります。

縁切り祈願は、牛久縁切り稲荷に祈願します。

縁を切りたい願いを赤い形代に書いて、縁切り藁人形に祈願します。

悪い縁と縁を切り、良い縁が生じるよう祈願します。

本人の決心が、つきさえすれば、縁が切れる内容の場合は、縁切り祈願をすることで 、決心が、より強固なものとなります。



〇生きていると色々な経験をし、色々な縁が生じます。

生きていれば、悪い縁、良い縁に巡り会います。

悪い縁だと思ったらすぐに離れ、かかわらないないようにしましょう。

良い縁か、悪い縁か、洞察力と直感で、判断しましょう。

悪縁とかかわること、悪縁を生む行為をすることは、やめましょう。



〇運が悪い人とかかわると自分も運が悪くなると言われます。

ああだこうだ、ああしたいこうしたい、ああなれば良い、あれが欲しいこれが欲しい等、これが実現しないのは運が悪いからだと人は考えます。

自分のいる境遇を変えることは困難です。

人間、本来無一物と教えがあります。

人間は、誰でも、裸で生まれてきました。

服を着たり、お金を持って生まれてきた者はいません。

人間は、大人でも子供でも、生まれたときの裸に戻れば良い。

物を持つから欲がでる。

嫌な境遇、環境、立場からは逃げ出せば良い。

裸同然の暮らしでも、元に戻るだけのこと。

何の不足もない。

贅沢もする必要ない。

このように考えれば気持ちも楽になる。

このような考え方もあります。

現実問題として、家庭、家庭に、複雑な問題もあります。

本来無一物の考え方で解決できる方は、解決すれば気が楽になります。



〇人間も、動物も、植物も、地球も、月も、太陽も、宇宙も、何もかもすべて、縁でつながっています。

夫婦も、友達も、親子も、ペットも、ご縁で結ばれています。

人間に生じた縁は、人間の意思により切ることができる場合もあれば、切れない場合もあります。

生じた縁を切るのは、簡単なことではありません。

特に、人間同士の縁は、相手方が、縁を切る意思がない場合は、縁を切るのに困難を伴います。

ストーカーのように一方的に、縁を結ぼうとする者の執着を消滅させることは、著しく難しいことです。

縁を結びたくないのに結ぼうとすることは自然の道理にかなったことではありません。

執着心が強ければ強いくなるほど、その人間との縁を切るのは、困難さを増します。

執着心を捨て、人生をおくるのが僧侶です。

人間、醜い執着心を捨てて生きたいものです。

合掌



〇ありとあらゆる存在は、すべて相互に依存して存在しています。

この相互依存関係を縁と呼びます。

何かの条件、状態が発生し、縁が生じます。

縁は、単独に、何の因果関係もなくも自然発生的には発生しません。

悪縁も、良縁も、何らかの因があって発生したものです。

このように、この世は、すべて縁でつながっています。

から、誰でも、悪縁にめぐりあうことがあります。



果を見れば因がわかる。

因を見れば果がわかる。

善因は善果を生み、悪因は悪果を生む。

この因果の関係に、何らか「縁」が加わると果に影響を及ぼす。

すなわち、自分の行いだけでは制御できない「縁」によって、自分がその「縁」の影響を受けるのです。

良縁なら、良いですが、悪縁であれば、困ります。

たとえば自分の意思と無関係にストーカー被害にあったり、悪縁となる同級生にイジメられたりと、自分が因を生み出していないにもかかわらずです。

こういう悪縁からは、逃げるしかありません。

悪縁にかかわると自分自身に悪影響がでます。

仏教は、他人はもちろん、自分自身を苦しめることも禁じています。

お釈迦様は、自分自身の身体も心も気を使い、酷使することなく、一生大事にしてあげなくてはいけないと説きます。

仏様である自分を大事にできない僧侶が、仏様である他人を大事にはできません。



〇|因縁|

因を見れば、概ねの果がわかる。

果を見れば、概ねの因がわかる。

悪因悪果、善因善果。

因と果の間には、縁があります。

因が発生後、縁が生じたり、滅したりしながら、その影響を受けて果、結果が生じます。

原因は、悪くなかったのに、縁により、悪い結果になってしまったということもあります。

原因は、悪かったのに、縁により、良い結果になったということもあります。

運が良い、運が悪いということも、すべて、生じたり、滅したりする縁に依存したものです。

良い結果を生む縁にめぐり合うことが運が良いということです。

つまり、因を見ても、正確には、果がわかないし、果を見ても、正確には、その原因がわからないのです。

親の因果が子に報いと言われますが、そのようなことはありません。

親の因果は、親の業となり、親個人の責任であり、親個人が背負っていくものであります。

親であろうと、誰であろうと、個人の因果、業は、その人個人の業であり、他人の業に変化することはありません。

まさに因果応報です。

自分に報いが、はねかえってくるということです。

たとえば、あの人は、悪いことばかりしてきたから、その報いを受けて、落ちぶれた とか、ばちがあたった、という話はそのことです。

この世では、良い縁に恵まれ続けると、因果応報にならないことになります。

自分のまわりを見渡しても、悪いことをしても因果応報にならず、順風満帆な人生をおくっている人が、いるのではないでしょうか。

しかし、そんな人でも、自分の業から逃げることはできません。

人間は、この世の業を背負って、転生していくので、どこかの世で、因果応報による報いを受けることになると思います。



〇|縁を切る|

積極的に、能動的に縁を切るとは。

自分が積極的に動いて、縁を消滅させる。

自分が積極的に動いて、何らかの縁を生じさせて、縁を消滅させる。

結果、縁が、切れる・なくなる・消滅する。

消極的に、受動的に縁を切るとは。

誰かが、縁を消滅させてくれる。

誰かが、何らかの縁を生じさせて、縁を消滅させてくれる。

自然と何らかの縁が生じ、縁が消滅するのを待つ。

つまり、縁を切るには、積極的に動くか、受動的に待つかである。

受動的に待つ場合は、いつ縁が切れるかは、わからないし、切れないかもしれない。

本当に、悪縁であれば、積極的に動く必要がある。



〇|十二因縁|

お釈迦様は、人間というものは、無明、無知を原因として、愛や欲望という煩悩が起こり、そのような煩悩 に振り回される生き方をすることになり、その結果、何らかの業を背負うことになる。

そして、結局は、業を背負って、老人となり、死んでいく。

人間は、転生する度に、この繰り返しの人生を、おくることになる。

輪廻転生を繰り返し、人生を繰り返し、苦悩も繰り返す。

苦を生み出す根本原因の無明をなくせば、苦悩もなくなるということである。

無明とは、灯りがともっていない状態、暗いということである。

無明は、明かりが無い、真っ暗ということ。

真っ暗で、この世、俗諦の世の中での、真理、道理が、智慧が、見えない、わからない。

仏の真理、道理が、智慧がわかれば、部屋の中に、ぱっと灯りがともり、苦の原因もわかり、正しい人生、苦のない人生をおくれるというのである。

無明をなくせば、ぱっと明かりがついて、すべてのことが良く見えるようになる。

無明をなくすには、智慧が必要。

空の見地からすれば、一切が空なのだから、無明ということを意識する自分も仮である。

無明は、俗諦の中では、存在するが、空観、真諦の中では、存在しない。

ある人にとっては苦であっても、別の人にとっては苦ではないということもある。

テレビ、映画、本に夢中になっているとき、熟睡しているときには、苦がない。

苦自体も、空の見地からは、仮であり、実体がないものである。

お釈迦様は、十二の因縁を説き、無明を根本原因、始まりとし、それによって次の因が発生するというよう に、順番で、前の原因からも次の原因となるものが発生するという過程を説いた。

この十二の因縁を一つづつ順番にこういうことが原因で煩悩が生じ、苦が生まれているということを良く理

解すること。

次に、十二の因縁を、無明に始まり、一つづつ順番に滅していくことで、苦悩も滅するということを身にしみこます。

最終的には、無明がなくなり、智慧を得、苦悩から解き放たれるということです。

凡夫は、十二の因縁を良く理解し、無明を滅する修行を繰り返し、苦から、無明から解放される訓練を続け ることになる。

結局は、無明、無知をなくせば、苦もなくなり、おだやかに人生をおくれるということです。



〇|縁切り|悪運|縁切り祈願|

縁切りの祈願が叶うかどうかは、神仏が、お慈悲をかけてくれるかどうかによっています。

神仏が、何を基準として、お慈悲をかけるかは、わかりません。

願いが叶った人は、神仏にお慈悲をもらったということです。

自分の関係する相手の運が悪いと、自分にも影響して来ます。

家族、知人、友人、夫婦、同棲相手、恋愛相手等の、影響を自分も受けるということです。

このような関係を一般的に、悪縁、良縁と言います。

運の悪い人も、それは今の時点のことです。

運の良い人も、それは今の時点のことです。

人生には、浮き沈みがあります。

人生いつも良い状態ではないし、いつも悪い状態でもない、と一般的はにいえます。

長期に亘り、信じられないような悪運、出来事が、続くことは、世間一般、当たり前のよう多々あります。

世間の皆様は、自分の不幸な状態を他人には、話さないことが一般的なので、そのことに気がつかず、自分 だけが、不幸、運が悪いと感じてしまいがちです。

自分の人生の浮き沈み、横ばいという、この人生の流れを感じ取り、それに合わせて、人生を送ることがで きれば最良です。

日々、平穏無事ということが、最良です。

人間には煩悩がありますら、欲張っており、平穏無事より良くないと、運が良いと感じません。

悪縁といっても、現時点では、そうでも、時間が経てば、変化することもあります。

諸行無常です。

ご縁とは、複雑で、いつでも生じ、いつでも滅する、いつまでもなかなか変化しない、不思議です。

だから悪縁から離れたくとも、積極的に動けば良いのか、何もせず待てば良いのか知る余地もありません。

ご縁という不思議なものに対しては、不思議な神仏のご霊験に期待することも一つの手立てとなります。

神仏のご霊験は、神仏のお慈悲によるものです。

何を根拠にして、神仏のご霊験があるのかは凡夫の知るところではありません。



〇積極的に|縁切り|に動く、必要性

踏ん切りがつかない人、優柔不断な人、気が弱い人、人を傷つけることができない人、臆病な人、などは、積極的に動けば、悪縁が切れるのに、切れないで、ズルズルと、人生を無駄にしてしまう人がいます。

積極的に縁を切る動きをすれば切れると思われる悪縁であっても、縁切りの申し出、縁切りの動きを起こしたいと思っても、消極的な人、おとなしい人にとっては、そうもいきません。

しかし、いつまでもずるずるせずに、自分の人生、思い切って、縁切りの行動に移すことが大切です。

他人の人生ではありません、じぶんの人生です。

悪縁を断ち切れて、スッキリとした、積極的に動いて良かった、と感じることができるかもしれません。

積極的に動いた結果、悪い人間関係がスッキリし、新しい人生を始めることができるかもしれません。

そして、これからは、悪縁と、つながることがないように、人生を歩んでいきたいものです。

ところで、娑婆世界は、空の世界、何一つ、仏の世界で言う真実はありません。

縁に依ってすべてが生じ成り立っているのが娑婆世界。

人間の身体一つをとっても、無数の細胞等でてきており、色々なものが、縁により、組み合わされ、できあがっているだけです。

人間自体、ご縁により出来上がったものであり、これが人間であるというもの自体、存在しません。

身体は、日々、老化し、変化していく。

自分の意思では、どうにもならない、一瞬の存在。

そして、いずれは消滅していく存在。

限られた時間にのみ、存在する。

いつも変化し、いつで消滅することがある存在です。

人間一つとっても、複雑で、絶妙なご縁の組み合わせにより出来上がったもので、この娑婆世界のすべての存在や出来事も、複雑で、絶妙なご縁の組み合わせにより出来上がったものです。

いつでも消滅し、いつでも変化し、いつでも発生し、いつまでもなかなか、変わらないものです。

このように複雑に絡み合ったご縁と、仏様の慈悲も同じご縁です。

仏様のお慈悲は不思議で、ご霊験、ご利益と言われるものです。

凡夫の縁を切りたいという願いに、仏様のお慈悲による力が加えられ、その結果、不思議にも、縁切りの願いが叶う場合もあります。

仏様のお慈悲による力が加えられたにもかかわらず、不思議にも、縁切りの願いが叶わない場合があります。

何故かは、凡夫の知るところではありません。

不思議です。

願いが叶おうが、叶わなくとも、どんなときも変わらず、仏様を信仰、熱意を持って、仏様のお慈悲を願い 祈ることが、大切です。

そもそも祈願自体、凡夫の自己中心的思考、欲望、煩悩により生じていることですが、それをどう判断する かは仏様の考えであり凡夫に知る余地もありません。

仏様のお慈悲により叶ったのか、ご縁により叶ったのかは、凡夫の知る余地もありません。

人間も、自然も、何もかも、娑婆世界は、ご縁に依って生じています。



〇|ご縁|について

ご縁とは、不思議なものです。

家族の縁、親、兄弟、子供、孫、祖父母、親戚の縁。

不思議なご縁です。

地球上には、多数の生物が存在する中で、人間に生まれることができたご縁。

まさに盲亀浮木です。

自分の子供として生まれてきてくれた不思議なご縁。

男女のご縁によって生じた子供。

金持ちの家に生まれるご縁、良いご縁に恵まれ順風満帆な人生をおくる人、ご縁により、悪人にもかかわら ず不幸に見まわられず人生をおくる人、こつこつまじめに努力しても、不運な人生をおくる人、戦地に生ま れ苦しみ続ける人、縁は、色々です。

凡夫の安楽な地は、仏の世界だけです。

凡夫は、即身成仏、仏に身も心もゆだねて、自分の身に即した仏になること。

凡夫は、瞑想により、入我我入により、仏の世界へ入ることです。



〇|ご縁|十二因縁|煩悩即菩提|について

お釈迦様は、十二の因縁、十二の縁起を説いたとされます。

縁というものが生じ、それに依存して、すべての物事が生じる。

一つの物事が、どのような経過を経て、生じたかを、分析したものが十二の因縁。

そこでは、どのような十二の縁によっているかを分析する為、一つ一つ原因を追究していく方法によった。

お釈迦様は、分析する物事として、人間の最後は、老いて死亡することであり、その恐怖、どうにもならな いもどかしさに、苦悩することになることから、何故、老いて死亡すること、に苦悩するかを分析した。

何故、老い、死亡に対する苦悩が生じるのか、その原因を考えると、それは、生まれたからである。

何故、生まれてきたのか、それは、人間は、この世に生存することができるからである。

何故、この世に生存できるのか、この世に執着があるから、生存する。

何故、この世に執着するのか、この世の色々な人、物事に愛着、愛してしまうからである。

何故、愛着が生まれたのか、自分の感受性、自分の感覚に刺激を受けるからである。

何故、自分の感受性、自分の感覚に刺激を受けるのか、それは外の対象物に触れるからである。

何故、外の対象物に触れるのか、六つの感覚器官があるから、その感覚器官が、外の対象物に触れるのであ る。

何故、六つの感覚器官が、働くのか、それは人間の精神的、肉体的な働きによって、働く。

何故、人間の精神的、肉体的な働きが起こるのか、それは人間の精神、心によって、物事を識別するからで ある。

何故、人間の精神、心によって、物事を識別するようになるのか、それは精神というものが動きだす、精神 作用というものが、生じるからである。

何故、精神作用、精神の動きが生じるのか、それは人間が無知であるがため、煩悩を生じさせているからで ある。

つまり、無知による煩悩を発端として、人間の精神や色々な感覚が動き出し、欲望、愛欲が生じ、無知な為、そのような感覚から離れることもできず、自分自身はもとより、その他のものも存在すると考え、離れることもできず、自分自身やその他のものに、執着することになる。

自分自身、他人に執着するようになると、いつまでも自分というものに滞っていますが老いて、死んでいくことにも苦悩が生じる。

それでは、煩悩をどうすれば消滅させることができるのかということになり、瞑想による智慧を得ることに集中し、執着心、欲望から離れる境地に達するか、あるいただ一心に不動の信仰心を持ち、執着心、欲望か ら離れる境地に達するかである。

これを身に付けるためには、継続的な修行、訓練、自己暗示が、必要ともいえる。

煩悩、無知を消滅させるための手段として、煩悩から、苦悩から逃れる手段として、ご縁として、凡夫は、 信仰の道に入るきっかけとなっていく。

修証一如である。

煩悩について考え、反省し、苦悩し、これを繰り返<し、そこから何かが生まれる。

仏の智慧を求める作用となっていく。

煩悩が、きっかけとなり、信仰心が芽生え、教えを説かれ、菩提を求める心が生じてくる。

迷いからの解放、苦悩からの解放。

苦悩、煩悩が、あったからこそ、煩悩に気が付き、それがきっかけとなり、迷いの道から救いの道を歩む ことになっていくこともあるのである。



〇|ご縁|苦からの解放について

悩み、苦悩の元は、無知ですが、現実に解決する方法、苦悩から、解放され、スッキリした気分になる実践方法はどうす

るのか。

すべてのことは、無数の縁から生じている。

そこで、まず執着心持たないということを心に誓った上で、現在の苦悩の因縁、縁、原因を考え、すべて、思い切って、捨てる、取り除く方法です。

たとえばゴミを捨てられないためゴミの置き場所に悩む、気になった本など、趣味や興味のあるものに固執してしまい留まることをできず集めてしまい、経済的に困窮し、置き場所にも困り悩む、嫌いになった異性から別れることにふんぎりがつかず、毎日、苦悩するなど、捨てる、取り除く、別れることで、この苦しい世界から、解放されます。

そもそも集めることは、執着、欲望の現れであり、苦悩の典型です。

縁によって生じたことも、バッサリと執着心を切り捨てることで、苦悩から解放されることになります。

所在地:〒300-1211 茨城県牛久市柏田町3260-15

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